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Dec 29, 2008

自己犠牲と英雄

ポスト @ 4:03:06 | 考察 | Hatena-Bookmark | この記事へのリンク

ニーベルングの指環

リヒャルト・ワーグナー作曲の「ニーベルングの指環」というオペラをご存じでしょうか。「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」の四部作で一つの大きな物語(後述)を形成しています。オーケストラは約 125 人、歌手は 34 人をそれぞれ要し、さらに「神々の黄昏」では混声合唱も必要とされています。今でもワーグナー自身が建設したバイロイト劇場で、毎夏、演奏されています。

上記数字は、「ワーグナーと指輪四部作」(ジャン=クロード・ベルトン著、横山一雄訳、白水社)に依る。

これから書く事とも関連するストーリーのみ書きましょう。人によってはストーリーが長すぎるだけで嫌いな人もいるぐらいです(インターネット上の他の解説も併せて読んでください)。一連の話はライン川の乙女たちが持っている「指輪」を中心に回っています。主神ウォータンは指輪を手に入れようとし、一度は手にしますが、すぐに手放すことになります。それを悲しんだウォータンは、旅人になり、人間界の女性と双子の子供(ジークリンデとジークムント)をつくります。双子はすぐに引き離されますが、後に、ふとしたきっかけで出会い、近親相姦を犯してしまいます。

その間にジークリンデの夫と、ジークムントが決闘をすることになります。双子の父であるウォータンは、我が子を助けようと、娘であるブリュンヒルデを向かわせようとしますが、正妻で結婚の神であるフリッカが双子の近親相姦を諫めます。これによって、ウォータンは、不本意な命令をブリュンヒルデに下します。

ブリュンヒルデは父神の本心を理解し、双子を助けようとします。ジークムントは戦死しますが、何とかジークリンデを助け出すことには成功しました。しかし、ウォータンの命令を破った罪は大きく、ブリュンヒルデは神々の世界から追放され、巨岩の上で周りを炎に囲まれながら眠り、炎を破って眠りから解放してくれる 英雄 を待つことになります。

英雄はそう遠くないところにいました。ジークリンデの子であるジークフリートです。彼は数多の苦難を乗り越え、炎を破りブリュンヒルデを眠りから起こします(と同時に夫婦になります)。しかし、二人は人間界の陰謀に引っかかり、ジークフリートは殺されてしまいます。騙されたことに気づいたブリュンヒルデは、陰謀を裁き、ジークフリートの遺体を焼く火に身を投じます(自己犠牲)。これによって神々の世界は崩壊するのです。

日本の労働者

今、日本は労働問題が盛んです。テレビを見ても新聞を見ても、どこを見ても、派遣労働者を中心とするニュースが行われています。そして、そこでは、必ずと言って良いほど、労働者が擁護されています。

もちろん、誰が見ても変な今の労働体系は、政治家や経済人らによって作られてきたものです。彼らの責任は重大です。そして、平気でリストラ(解雇)をする経営者もまた責任重大です。しかし、労働者自身にも責任があると思います。

日本の労働者は、労働組合の組織率の低迷が表すように、ここ数年は、労働運動に必ずしも熱心だったわけではありません。2 つの理由があります。一つ目は労働運動をするような状況になかったことです。不況、不況とはいっても、今年ほどリストラ(解雇)された人が多い年はありません。また、労働運動をしていると昇進等々で不利だということもあるようです。

二つ目の理由は、労働権は労働者が自分たちで勝ち取った権利ではないということです。欧米では、運動や革命などで「権利とは自分たちで獲得するもの」とされてきました。それに対して、日本では明治以降、「権利とは天から降ってくるもの」とされてきました。明治憲法は天皇が臣民に与えるものとされていました。また、現在の憲法も原案は GHQ が作成したもので、もし GHQ が音頭をとらなければ、労働権もあったかどうか… というほどです。また、新しい権利の主張は何度となく最高裁まで上っていますが、ほとんど認められていないのも、この国の、権利に対して消極的な風土を表しているかもしれません。

かつて、どこかの本にありましたが、「民主主義は常に主張していなければ機能しなくなる」というような文言を読みました。なるほど、憲法 12 条に「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力 によつて、これを保持しなければならない。」とあるのも、そうしたことを踏まえているのでしょう。これを労働権に置き換えても通用するでしょう。「労働権は常に主張していなければ無視されるようになる」。敢えて厳しく書きますが、今までの日本の労働者は、自分たちの権利というものについて意識してこなかったのではないでしょうか。派遣労働の悲惨さは労働者が権利を主張しなかったから悪化した - といえば言い過ぎでしょうが、そうした面が全くないわけでもないはずです。

小林多喜二の「蟹工船」が流行ったというのも、考えてみれば情けない話です。読んだことはありませんが、最初と最後ぐらいは知っています。ただ、70 年前の文章に共感するだけですか? と思うのです。今、「蟹工船」を読み終わったとします。あなたは多分、「日本共産党万歳」の落書きの件を読んだのでしょう。悲惨な状況は今も変わらないと思うでしょう… それだけで終わっている人は多いのではないでしょうか。「蟹工船」を読み合うことで連帯感が生まれるならまだしも、ただ読んで共感して… それで何か変わるのでしょうか? 最近になって、派遣労働者の方々も労働組合を結成するケースが増えてきたようですが、それが「蟹工船」の影響かどうかは知りません。「蟹工船」がそうした運動に影響を与えるなら良いですが、ただ文章に共感しているだけならば、先ほど書いた「権利を意識していない労働者」に過ぎません。

「20 世紀型」と「21 世紀型」

イラク戦争

今、世界全体が大きな岐路に立たされています。来月に任期を終えるブッシュ大統領は、大きな間違いをしたのです。彼は「21 世紀型」の問題を「20 世紀型」の方法で解決しようとしたのです。

2001 年 9 月 11 日 - 21 世紀の開始年に、あの事件は起き、そしてそれが今の混乱の近因であろうと遠因であろうと、原因には違いありません。そして、その後の米国の取った行動は、「21 世紀型」の問題がとても難しいものであることを証明してくれたのです。

「20 世紀型」の戦争は、主権国家対主権国家の戦いでした。そのうち(当然のことながら)一対一で戦うことに限界を感じ、多くの国々が東西に分かれました。しかし、それでも、主権国家対主権国家の戦いでした。お互いの武力(特に核)を誇示し合うことは、主権国家同士の見栄張りでした。いかに相手国民に自国への恐怖を抱かせるか - それが重要でした。実際、冷戦はほとんどがそうでした。

「21 世紀型」の戦争は、主権国家同士の戦いではありません。宗教的な対立、価値観の違い、文化の違い等々が、戦争を引き起こすのです。しかも、戦争は多くの場合、不可視です。というのも、こうしたものは人間の心の中に存在するものだからです。誰が敵か分からない - 米国軍はイラクに行って初めてそれに気づいたのです。数の上では、米国軍はイラクをすぐに攻略できるはずでした。しかし、できなかったのです。軍隊を大量に投入する「20 世紀型」の戦争方法は、もはや通用しないのです。

金融危機

金融危機についても、世界は大きな岐路に立たされています。前例としては 1929 年の世界恐慌があります。「永遠の繁栄」を謳っていた米国は、ケインズの修正資本主義の手を借りて、公共事業を増やし、難局を乗り越えました。しかし、今となっては、特に日本にとっては、これもまた「20 世紀型」の解決方法になってしまいました。

日本のように借金の多い国にとって、公共事業を増やすことは、とんでもないことです。日本中至る所に車道が整備され、「すべての道は東京に通ず」と言って良い状況なのです。日本で足りていない公共事業を探す方が難しいぐらいでしょう。となると、ケインズの考えを、そっくりそのまま持ってくることはできません。

多くの人びとは、金融危機は 2, 3 年で終わると思っているかもしれません。しかし、「21 世紀型」の解決方法を各国は、ほとんど提示できていません(オバマも基本は公共事業拡大です)。日本も首相が「世界で最も早く金融危機から脱却する」と言って政策を発表していましたが、大袈裟なことを言う割には、直接効果なしのものになりそうです。

自己犠牲

「20 世紀型」と「21 世紀型」の二項対立は探すと切りがありません。しかし、この対立は、必ず「犠牲」を生んでしまいます。イラク戦争にしても、実際に軍隊を派遣して犠牲者が出て初めて、先ほど書いたことが分かったのです。金融危機が起きて実体経済に影響が出て初めて、政府が市場に介入すべきだという意見が増えました(それもまた根本的解決にはならないのですが)。

そして、派遣労働問題も犠牲を伴うことになってしまうでしょう。今の日本政府の対策は個々人に直接支援するものではありません。間接的に効果が現れるには、時間がかかります。最低レベルの生活を送っている人にとっては、これは厳しいでしょう。「痛みを伴う構造改革」とは誰かさんの言葉ですが、その痛みは社会を崩壊させるぐらい痛いものだったようです。

世界が変わるとき、犠牲は不可避のものだということは歴史が教えてくれていますし、「ニーベルングの指輪」も教えてくれています。今、「20 世紀型」のシステムから「21 世紀型」のシステムへ移るのに当たって、やはり犠牲者が出ることは不可避でしょう(世界が変わるときに犠牲者が出ないのがもちろん、一番良いことですが…)。ただ、思うのは、それがアンデス山脈の「生贄」のようになってはいけないということです。「生贄」は宗教的儀式でしたが、その際、少年少女を酒で酔わせて、山の頂上などに置き去りにして神に捧げたといいます。「神に捧げた」といっても、必ずしも神から、社会に、(そして一番重要なのですが)その人自身にも見返りがあったのかどうかというのは問題でしょう。派遣労働の場合、その犠牲は、他の派遣労働者の地位を改善したり、社会システム全体を変える - そういった見返りを伴うものでなければなりません(もちろん犠牲者自身にも名誉という見返りがあって当然です)。犠牲を無駄にしてはいけないのです。

英雄

世界が変わるときには、人びとは自分たちの状態を改善してくれる「英雄」を求め、そして実際に候補者が現れるものです。ただ、世界恐慌後に、ドイツの人びとが「英雄」にヒトラーを選んだり、ソ連の人びとが「英雄」としてスターリンを崇めたように、あるいは冷戦後の世界が米国を「英雄」に選んでしまったように、「英雄」選びは失敗する確率が極めて高いものです。なかなかジークフリートのような英雄は見つからないものです(ちなみに、あのヒトラーはジークフリートを自身に重ねていたそうですが…)。

今、最も「英雄」に近いのはオバマでしょう。「英雄」に必要な「カリスマ性」は備えており、第一条件は満たしていると言えるでしょう。ただ、真価はこれから問われなければなりません。

日本においても、「英雄」探しは 慎重に 行われなければなりません。かつて「英雄」のように崇めた人も多い小泉純一郎の政策の数々が、今、問題の派遣労働などを生んでいることを忘れてはいけません。日本人は小泉以降、なぜか、政治家に「カリスマ性」を求めがちですが、そうしたことが肝心の政策吟味を忘れがちな傾向を生んでいます。政策を見て判断するようにしなければ、独裁者が生まれやすい土壌を作ることになります(独裁者と「英雄」は共通点も多いのです)。

それにしても、今の日本の政治家を見渡しても、「英雄」は到底、いるようには思えません。見ましたか? あの国会閉会の日の茶番劇を。渡辺喜美が一人立って民主党議員から拍手されるシーンです。最近、とかく政界再編が噂されていますが、そんなことするよりも、元旦(元日の朝)を国会議事堂内で議論しながら過ごすぐらいのことはしてもらいたいものです。誰かさんが言っていましたね。「未曾有(みぞうゆう)の危機」「百年に一度の危機」… 口だけは達者で困る。

Dec 24, 2008

真の教育改革とは?

ポスト @ 1:58:43 | 学校 | Hatena-Bookmark | この記事へのリンク

文科省の新高校学習指導要領案について。英語・国語・数学・理科・歴史・情報、最後に入試について、それぞれ考えを書いてみます。

英語

やはり波紋を呼ぶのは「授業は基本的に英語で」とされた英語だろう。文科省としては、「中高併せて六年も学ぶのに英会話ができないとは…」という一部有識者(?)の声に応えたつもりだろうが、とんでもない。

私自身、中学校に入ってすぐは、英語は嫌な科目の一つだった。実生活で大して役に立たないのに、アルファベットを覚え、単語を覚え、文法を覚え… これが嫌だった。私の場合は、嫌なものはとことん嫌だから、当然、英語の成績は下がる。当時、国文学をやりたかったので、英語への興味よりも歴史や国語の方が興味があったほどだった。

その流れを変えたのは、親に行かされた塾だった。「S + V」から徹底的に文法をたたき込まれた結果(先生の教え方も上手かった)、英語に自信を持ち、ついには好きな科目の一つになった。これが中学二年に上がった頃だ。ちょうど、その頃から Mozilla の翻訳もどきを始めた(今でもそうだが、当時のダメだしの多さには閉口し、自信は何回も打ち砕かれた…)。

今の私なら、英語は必要だと言える。英語を学ぶことで、日本語をはるかに上回る分量の情報を得ることができ、視野も広がるからだ。

だが、今回の文科省の方針は間違っている。人は英会話が大事だというが、それは英語話者と話す機会が多ければという前提条件つきだろう。日本の田舎を歩いていて、ある日、英語で話しかけられるということは滅多にない。そもそも、日本に来る外国人は日本語を学んでいる場合が多いほどだ。

英会話を人びとは崇めている。リスニングがセンター試験に導入されたのも、その崇拝の一環だろう。私のリスニングの点数は人並み、あるいはそれ以下だが、それを決して恥じてはいない。まず、リスニングは一方的に向こうが喋るものだ。英会話となれば双方向だ。しかも、日本人が英語に不慣れということは知られているから、相手も分かりやすく喋ってくれる。要するに、こちらが物怖じしなければ良い。シンガポールに行ったとき、係員に「Where is the トイレ ?」(本当は「toilet」なのだが日本語で)と尋ねたら、向こうは大変、ゆっくりと分かりやすく、「出口で手にスタンプを押してもらって、左に行ってください」というようなことを言った。片言ではあるが、一応、英会話は通じる。こちらが聞きたいという気持ちを表せばだが。

だから、私は英会話を高校、果ては小学校から学ばせようという動きに反対だ。それよりも、文法を教えるべきだ。英会話は適当に単語をつなげても(文法を無視しても)通じるが、文章を読むときに文法は必須だ。文法を駆使しなければ、文章から正しい理解など得られるわけがない。実際、英会話はできても、文法はできないという人がいる。それは、本当に英語ができる人とは言えないだろう。英会話は、やりたいという気持ちがあれば、いつでも可能だろうが、文法はちゃんと教えてくれる人につかないと、後からではできない。

さらに、私の中学時代のような英語嫌いは増えるだろう。普段、実生活で使う機会がない上に、勝手に授業は進み取り残されるからだ。中には、英語だけの授業で成功した例もあるだろう。だが、それに取り残されてしまった生徒をどうするのか。文科省の役人が考えている学校は、いわゆる「モデル校」だけではないか。高校と言ってもピンからキリまである。「教育格差」という言葉が叫ばれているが、そうしたものを直視せずに、政策をどんどん変えていく - こうした文科省の姿勢が何を生んできたか。深く胸に手を当てて考えよ。さすれば、このような英語改革が教育格差を広げ、英語嫌いを増やし、結局、英会話はおろか文法知識すらあやふやな人間を増やすだけになることは、すぐに分かるだろう。

国語

英語改革をするよりも、国語をどうにかすべきだという声は強い。全くだ。しかし、多くの人びとは漢字を知らなかったり語彙の意味を知らない点をいう。けれども、そうしたことよりも、もっと大切なことがあるはずだ。「考える力」と「感じる力」だ。

日本人に一番欠けてきたのは「考える力」だ。今回の学習指導要領で、文科省は「ゆとり教育からの脱却」を謳っている。こうした文科省の政策自体が「考える力」の欠如を表している。日本の政策は、10 年、20 年というスパンで考えていない、否、考える力がないのだ。

国際会議で日本人は何をしているか。ただ、ぼーとしている。別に、英語が話せない訳ではない外交官ですらそうなのだ。だから、3K と揶揄されたわけだ。語学力はあっても、「考える力」がない。だから、ぼーとしているのだ。

アメリカでは、小学校低学年からディスカッションやトークをする。だから、米国大統領には名演説が多い - というのを、前、NHK の番組で観た。日本にも、こうしたことが必要だと言われて、空しい月日が何年、経っただろう。未だに国会を見れば、人の意見を聞けずに、ヤジしか飛ばさない。「考える力」の欠如は著しい。

「感じる力」も怪しい。今の教科書を見ると、余りにも名作が少なすぎる。載っているのは感動のしようがない、最近の下手くそな小説家の作品だ。これが偏見としても、およそ日本人たるもの、名作は読まねばと最近、思い始めた。特に明治・大正期の文豪の作品は教科書に復活させるべきだ。

また、今の押しつけがましい講釈型の小説解釈は止めるべきだろう。その小説を読んで何を感じたか - これを大事にしないといけない。答えは一つではないし、そもそも一つであってはいけない。芥川龍之介の「羅生門」を私は好きだが、読む度に、新しい解釈が頭に出てくる。名作といわれるものほど、そうしたことは多い(いや、多くて当然だ)。

「感じる力」が伸びれば、豊かな心が育つだろう。人を傷つけるような言葉も発しなくなるだろう。他者を思いやるようになるだろう。最近は、道徳教育でこうしたことをしようとしているが、国語教育ですべきだ。

数学・理科

私の嫌いな科目だ。ただし、今回の改訂で良いのは、より実生活に役立てようという傾向が見られることだ。数学ならば、三平方の定理が何に役立つか、微積分が何に役立つかということを教えるべきで、公式から教えられても面白いはずがない。

理科は、知識量を削ってでも実験すべきだ。どんな人間だって実験は好きなものだ。高校の理科は実験が少なすぎる。顕微鏡を眺める、物質を混ぜる等々… 理科は実験があって初めて理科となるのだ。

歴史

歴史については、(世界史Aだけでなく他の教科でも)もっと近現代史を充実させるべきだ。歴史がなぜ大事かといえば、今の生活に役に立つからだ。パレスチナ問題のように古代から続いている問題もあるが、やはり近現代史が大事だ。今の歴史は、入試の兼ね合いもあってか、近現代史を無視しすぎだ。

近現代史を知れば、今の問題の源が分かる。中国はなぜ大陸と台湾に分かれているのか、インドとパキスタンの対立はなぜ起きているのか、米国主導の世界になったのはなぜか…。日中戦争や第二次世界大戦といった負の歴史についても、正しく解釈し、次世代に伝えなければならない(最近、ここがもっとも歪められている)。中国や韓国、東南アジア諸国で近現代史の教科書を一冊編んでいるのは当然のことだ。日本もそれに倣うべきだ。

情報

情報モラルが重視されているようだ。確かに、それも大事で教えられなければならない。

だが、ソフトウェアが変わると手も足もでないという状況は何とかしないといけない。Word や Excel から OpenOffice.org にソフトウェアが変わっても、何ら困ることなく使えるのが理想的だ。そのためには、今の「インターネットを始めるには青い e マークをクリック」というような特定ソフトの使い方を教えるような教え方は止めるべきだ。どのソフトウェアにも種類が同じであれば、ほぼ必ずといっていいほど共通点がある。そうした共通点のみを教え、生徒に柔軟性を求めるべきだ。

なぜか、情報の教科書では商品名が意図的に消されていたりするが、そうしたことは無意味だ。むしろ、「この教科書では Windows で説明しています」ぐらいの注釈は入れるべきだ。必ずしも、Windows だけが OS でないこと、Word や Excel はあくまでも例示に過ぎないこと、青い e マークは「ブラウザ」というソフトの一種に過ぎないこと… こうしたことが大事だ。でないと、それしか使えない人間を作ることになってしまう。

むろん、デジタルデバイドという言葉も存在していることは知っている。が、教師の説明が分からず、私に説明を求めてくるようなことがあって良いのだろうか。フィンランドは IT 立国で成功したそうだが、現状では、まず日本では成功しないだろう(e 政府なるものがあるが、これが全く機能していないことは有名だ)。

入試

最後に。私は常々、入試(大学)を変えれば、下は幼稚園・保育園まで変わると主張してきた(『「人間らしさ」教育』)。今年の 4 月に書いたものだが、思い出してもらうという観点からもリンクしておく。究極の教育改革は「入試改革」であり「大学改革」だという意見は、今でも全く揺るがない。いや、もっと強くなった。

最近、外山滋比古の本を読んだ。入試であれだけ取り上げられる人なのだが、その言っていることには、全く共感だ。「忘れることが教育だ」 - こういうことを外山さんは何度も言っておられる。「思考の整理学」は特にオススメだ。それにしても、文科省の役人は本を読まないのだろうか…。

Dec 21, 2008

Y 君への手紙

ポスト @ 3:53:01 | Music | Hatena-Bookmark | この記事へのリンク

拝啓

君に手紙するのは何年ぶりだろう。一昨年の年賀状(去年は出し忘れて申し訳なかった)以来かな?君が書いてくれたように I'm fine, thank you. And you ? の精神は大事だと思うが、そんなありきたりのコミュニケーション方法はもうゴメンだね。これからはボケとツッコミが大事だよ。

それはさておき、最近、ショスタコーヴィッチの交響曲第 9 番の最終楽章をよく聴く。行進曲でありながら悲しいという不思議な楽章で、これが魅力的なんだ。もちろん、そこにショスタコーヴィッチの皮肉を感じるわけだけどね。君も一度、聴くと良い。短い曲だからなおオススメだ。

偶然、音楽雑誌で「ショスタコ」という表記を見つけた。どんな「タコ」だろうか。君は笑うかもしれないが、これでも本人は真面目に考えているんだ。ショスタコーヴィッチのあの生命力を見れば、足はたくさんあった方が良いだろう。毒の強さを考えると、一回に出す墨の量は、ペットボトル 10 本分ぐらいが良い。君の意見も聴きたいが、「ショスタコ」という表記を見ると、ある時は真面目に考えるし、ある時は笑ってしまう。下手な芸人よりは面白いと思うよ。

そういえば、時々、「ブラ4」とか「ブラ1」とか言うだろう。もちろん、ブラームスの交響曲4番とか1番とかいう意味なのだけれども…。何を言いたいか分かるだろう。「人間に必要なのはエロスだ」とか、一番言わなさそうな人間が言っているんだから覚えているだろう。今回の「ブラ〜」もそうだ。全く厳格なイスラム教の国では言えないよ、こんなことは。

作曲家といえば、「ベト7」とか言う人が多い。でもね、何か「弁当7」って聞こえるんだよ。偉大な楽聖を弁当にするなんて失礼にも程があるだろう。

「フルベン」というのも、昔、丸山眞男が本(「フルトヴェングラー」)で言っていたけれども、良くないと思うよ。ちゃんと略さずに言って欲しいものだね。クナッパーツブッシュを「クナ」と略す人もいるけど、聞こえ方によっては「ツナ」に聞こえなくもない。

「ムラビン」という人もいるけど、やっぱり嫌だなぁ。そういうビンがあるなら別だけどね。さすがに「トスカニ」と言う人はいないみたいだね。どんな顔したカニか見てみたいのだけど。

散々、文句言ったけど(文句屋の Ami だからね)、良い略もあるんだよ。「チェリ」(チェリビダッケ)なんて呼びやすいし、他に妙な連想しなくて済む。あるいは、「Mr.S」(スクロヴァチェフスキー)。いや、スクロヴァチェフスキーって言えなくもないけれども、やっぱり疲れる。ここは、「Mr」をつけて、敬意を示しつつ略させてもらおう。

ちょっと、クリスマスカードに、ぐだぐだ書きすぎたね。大体、クリスマスカードを封書で送る奴なんていないか… 君からの返事は正月で良いよ。一言でも良いから送ってくれたまえ。できればボケって送ってね。ではまた。

独裁者 - 3

ポスト @ 3:15:23 | 考察 | Hatena-Bookmark | この記事へのリンク

カエサルとヒトラーの共通点を探してきたが、ここで日本の例外を示したい。

日独伊三国同盟を結ぶほど、ファシズム(全体主義)で結びついていた 3 ヶ国。だが、ドイツにはヒトラー、イタリアにはムッソリーニと明確な独裁者がいるのに対し、日本にはそういう意味での独裁者が見あたらない - かつて政治思想史学者・丸山眞男は、これに着目し、「無責任の体系」というものが日本にあることを発見した。

ここで 50 年以上前の丸山眞男の論を引っ張り出してきたのは、少なくとも 今までは 「無責任の体系」が存在していたことを明らかにしたいためだ。では、これからは?

昔の日本の政治 - 特に自民党 - は「密室政治」と揶揄されることもあった。密室で何もかもが決まり、ついには誰を首相にする(または首相を辞めさせる)という時代だった。当然、こうした所で決まったことは、誰が決めたか分からない。いや、分かってもらっては政治家は困る。こうなると、自ずと、「無責任の体系」になってしまう。

ところが、細川内閣による 55年体制の崩壊、そして小泉純一郎による新しいタイプの宰相像の呈示は、これを変えてしまった。「密室政治」は今でも行われているだろうが、その数は減り、少なくとも首相の座を「密室政治」で決めることは不可能になった(特に派閥の力を小泉が衰退させたことは大きかった)。

今でも、「無責任」が染みついている政治家は多いようだ。しかし、最近、とかく「責任」が問われるようになってきたのは、「無責任の体系」が少しずつ崩壊しているということだろう。これは良いことである反面、政治が日本型から欧米型へと変化しつつあるということでもある。そして、欧米型には(極端だが)独裁者の DNA がある。

百年に一度の未曾有の危機は、昔のドイツのような状況を呈している。失業者は増え、派遣という社会の最底辺に欠陥があることが発覚した。かたや、政府は来年度 GDP を 0 としたが、実際はマイナスだろう。「目標だから」という理由で現状把握すらきちんと行わない政府を誰が頼るのか。危機感はどうやら日銀にはあるようだが、肝心の政府にない。議員も自分の選挙のことで頭がいっぱいだ。誰も百年に一度の危機を乗り越えることを真剣に考えてなどいない。

政治が頼りないとき、民衆はメシア(救世主)の出現を望む。例え、それが現体制を破壊し、三権分立の掟を破るもの(ヒトラーが総統になって最初にしたことは全権委任法だったことを思い出す)であったとしても、非人道的なことをするものであったとしても、民衆は支持するのだ。

世界的に経済が悪化している今、世界中どの国で独裁者が現れてもおかしくない。日本も「無責任の体系」がなくなりつつある今、独裁者の出現は決して空想ではないだろう。法案を審議するしないや、内輪もめをして政界再編という言葉を言っている場合ではないことを悟るべきだ。

独裁者 - 2

ポスト @ 3:15:07 | 考察 | Hatena-Bookmark | この記事へのリンク

カエサルは、志半ばにして暗殺されたが、彼が独裁者になった背景は、その後の独裁者の大半に通じる。それは人間心理にも通じるものだ。

前稿で書いたように、スッラは終身独裁官になって元老院の力を強くしようとした。だが、もはやローマ独特の共和政は破綻寸前だった。元老院は、自分たちの地位を守ることに固執し、広大な領土を統治する能力に欠けていた。「内乱の 1 世紀」は終わったわけではなく、いつまた、内乱が起きてもおかしくなかった。

そうした混沌とした時代に、カエサルは権力を持とうとした。だが、スッラの弟子であるポンペイウスがそれを阻む。カエサルは元老院の命令を無視し、ルビコン川を渡り、元老院(とポンペイウス)を有名無実化した。そして、権力を自らに収めた。

カエサルがどんなに有能な武将であっても、民衆の支持が得られなければ、権力を収めることはできなかった。だが、混沌とした時代 だったということが重要なのだ。たった 100 年の間にテヴェレ川は何度も血の海と化した。血を流したのは兵士だけでなく市民も含まれる。「誰か強い人が混乱を収拾しないか」という思いの人は多かっただろう。そこにカエサルが現れ、民衆の期待を満たしたのだ。

ヒトラーが現れたときも同じだった。第一次世界大戦に敗れ、ワイマール共和国が出来ても、連合国からの莫大な賠償金要求に応えきれず、インフレを引き起こしてしまった。そのインフレは世界史に残るほどのもので、パン 1 つ買うのにお札の山を作らねばならないほどだった。このインフレは、後に政府によって収拾されるが、失業率は高いままで、かつ連合国への不満も高まっていた。

そこに、アーリア人(ドイツ民族)こそが世界で最も素晴らしい民族で、今の不況の原因は、私腹を肥やしているユダヤ人のせいだと強硬に主張するヒトラーが現れた。民衆は、自分たちの不満を代弁し、かつ不満の方向を変えてくれるヒトラーを支持した。恐ろしいことだが、こういういう時、人間は民族浄化すら支持するようだ。いや、厳密に言えば、多くのドイツ人はアウシュヴィッツのようなことは知らされていなかった。この点については、1985 年に西ドイツのヴァイツゼッカー大統領が演説で述べた文を引用しよう(「荒れ野の 40 年」より):

目を閉じず、耳をふさがずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。人びとの想像力は、ユダヤ人絶滅の方法と規模には思い及ばなかったかもしれません。しかし現実には、犯罪そのものに加えて、余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのであります。

上で引用した部分が重要だ。人間は、自分よりも下の身分がいることを望みがちだ。ヒトラーは、ユダヤ人をアーリア人の下に置くことで、多くのドイツ人を満足させた。そして一般民衆もそれを歓迎したのだ。

カエサルから始まりヒトラーで確立された「独裁者」の定義は、その後、何度となく現れた独裁者に当てはまるものとなったが、次稿では、日本の例外を示して終わろうと思う。

独裁者 - 1

ポスト @ 3:14:54 | 考察 | Hatena-Bookmark | この記事へのリンク

チャップリンの映画に「独裁者」というのがある。ここで描かれているのはヒトラー。チャップリンは、自身と同じ年に生まれた独裁者を、とても意識していたらしい。

といっても、別にヒトラーをそっくりそのまま演じているわけではない。そこは喜劇俳優チャップリン。コミカルだ。例えば、ヒトラーが演説する場面。ヒトラーの演説が熱を帯びすぎて、ヒトラーの前のマイクが曲がったり回転したりする。滑稽なことこの上ない。

さて、独裁者といえば、一般にヒトラーを指すことが多い。人類の歴史を振り返れば、独裁者はたくさんいるにも関わらず… それだけ、ヒトラーは衝撃的なのだろう。誰にも真似できない演説、ユダヤ人の大量虐殺、ミステリアスな死… そのどれもが、それまでの独裁者の定義を変えるには十分だった。だから、ヒトラーは今以て、独裁者の代表にあげられる。

そもそも、独裁者の最初は誰だろう。純粋に語源を辿ると、古代ローマの「独裁官」という役職になる。その初代は、独裁官表 によると、紀元前 501 年の Titus Larcius Flavus とかいう人らしい。

ただ、注意したいのは、この時代の「独裁官」は、臨時職であったということ。古代ローマでは、執政官(今風に言えば首相)は 2 人選ばれた(後に貴族から 1 人、平民から 1 人と慣例化された)。両者に立場の差はなく、何かを決める際には、両者が共に賛成しなければならなかった。

これでうまくいけば良いのだが、うまくいかない場合がある。急いで判断を下さなければならないような国家の一大事に、2 人で話し合っていては遅い。そこで、問題を解決する力をもった人を独裁官に任命する。これで指揮系統は 1 つになり、素早い判断ができる。ただし、任期が設けられていて、6 ヶ月だった。ここが今の独裁者と違う所だ。

となると、終身独裁官になった人を独裁者というべきだろうか。もしそうならば、スッラ という人物が最初だ。「内乱の 1 世紀」と呼ばれた紀元前 1 世紀を、ひとまず抑えた人だ。その方法は、まさに「血を血で洗う」もので冷酷きわまりなかった。だが、彼は、貴族からなる元老院の力を強くしようとした点で、後の独裁者と違う。独裁者とは、権力を一手に持って手放さない人間だ。

となると、その名前が後にドイツ語(カイゼル)とロシア語(ツァーリ)で「皇帝」を意味するようになり、かつ事実上の初代ローマ皇帝ともされる カエサル を最初に据えるのが適当だ。彼が人類の歴史の中で初めて、権力を自らの手に収めようとした最初の人物だ。長いので次稿へ。

Dec 15, 2008

首尾一貫しない人間を嫌う

ポスト @ 1:16:14 , 修正 @ Dec 15, 2008 1:20:52 | 考察 | Hatena-Bookmark | この記事へのリンク

首尾一貫しない人間を私は嫌う。自らの信念・思想を貫き通した者に対しては、さすがの皮肉屋の私でも、敬意を払う。

例えば三島由紀夫。彼が自殺する原因となった考えに私は、到底、同意できない。また、彼の一連の行動にも同意できない。が、一つだけ敬意を表したい。彼は自らの考えが、自衛隊員の理解を得られないと分かった時、降参して警察に捕まるということは考えなかった。彼には、それは自らの考えを曲げることであっただろう。だから自殺したのだろう。もちろん、彼の異常なまでの美意識も、それに左右したかも分からない。だが、彼は何も言わず、ただ切腹したのだ。

これを「美しい」などとは言わない。だが、自らの考えがもう前に進めないと思ったとき、そこで自分の考えを変えるよりも、死を選んだこと - これが私の敬意を表したくなる理由だ。

戦時中、自らの考えを変えた人間が多かった。共産主義者の中にも「転向」したものがいた。そうしなければ、ひどい拷問にあったことは、よく分かる。だが、そうしなかった人もいた。今、流行の「蟹工船」の著者の小林多喜二がそうだ。彼は生々しい傷で屍となって警察署から家に帰ったのだ。彼もまた、自らの思想に殉じた一人といって良い。あるいは、命を長らえた人の中にも、そうした人はいただろう。彼らはやはり尊敬に値する。

戦後の右翼運動は、三島由紀夫以前か以後で大きく分かれるように思う。三島由紀夫以前は、実際に行動を起こそうという人が多かった。だが、以後では、例えば法律を改正したり、右翼的言説を述べたりするだけと比較的おとなしい。それはそれで、平和な社会が保たれているわけで良いのだが、どことなく、心から「右」なのかとも思う。「ネット右翼」とかその最たる例で、中韓をネット上で罵倒するぐらいで社会的アクションは何もない。また、珍しく社会的にアクションしている時でも、集団でやっているだけで個人ではアクションしない。本気なの?と聞きたくなる。

今度の田母神もその流れだろう。「日本はルーズベルトの罠にかかった」と米国を批判している。だが、もし本当に米国憎しなら今の日米同盟は何なのかということになる。既存の枠組みを破ってモノを言えないのは、戦後右翼の特徴だ。また、退職金を受け取っているのも、未練がましい。そうかと思えば、賞金は辞退している。理解を得られなかったのだから、何ももらうべきではない。何かもらうということは、自らの考えを相手に合わせて曲げるということだ。

日本の自衛隊の一部や右翼は、結局、今の政治体制を変えたり、枠組みを変えたりということはせず、ただ言うだけだ。しかも、言った後の自らの責任の取り方は、余りにも粗末だ。本来、信念とか思想とかそういうものは、曲げてはいけないモノだし、本当の信念・思想であれば曲げることはできない。曲げざるを得なくなった場合、死を覚悟するぐらいの気持ちでなければ、信念や思想は安易に言ってはならない。昔に比べると、信念・思想の価値は随分と軽くなったものだ。

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